salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

静 寂

ぼくの音楽の基本にしている即興演奏の説明には途方に暮れてきた。なにしろ形の全くない音・音楽だから。それを語れないのは営業的に致命的だ。
そこで頭を絞ったひとつの言葉が「集中」。能と狂言を引き合いに、この世界はそれら両輪で成り立つのに狂言ばかりが偏重されて集中する能が軽んじられていると。だから自分と聴衆が集中できる環境を希望してきた。でもそれはなにか充分に言い表せてない歯痒い思いできた。

「静寂」という言葉に出会った。ぼくは28年続けている呼吸法による息(気)に無音や小音や細かい音を乗せる。それは波動の世界。コントロールしているのかどうかさえわからないその音たちは、空間と共鳴し満ちて宇宙にも広がる。そこにいる人たちの出している気という波動と混じり反応する世界。思いを乗せないニュートラルな音は各々の記憶を通して深い世界を引き出す。それは各自が宇宙という自分の中を観ることにも通じる。ぼくも自分が出している音に驚き感化され感謝する。でも今の人々は自分に向き合いたくないようにも思えてしまう。
そんな音楽がひとつの在り方としてなければならないし、目指し経験してきた。ざわついた空間ではなく静寂な時空で成立する。

そんな演奏を大分では ATHALL が受け入れてくれてきたのだけど、更にスペースや機会が増えることを願う。時代も追い風になったような気がする。
ちなみに即興演奏というゼロ磁場の経験からさまざまな表現が生まれ、自作曲を演奏するギターとのサガインも活動中だし、映画も作る。。自由に創造するのだ(=SalmoSax)。

2014年 ベルリン

 

TUBAX 到着

運命のいたずらでオーダーしてしまったTUBAX(コントラバスサックス)到着!
受注製作完成に2年。

コロナ禍はじまりの時期にこんなことをしでかした自分を褒めたものの、不安は同居し続けた。お金がなくなり15年かけた貴重な貯金だし、2年待つ間になにが起きるか分からないし気が変わるかもしれないしすぐに支払いたかったが受け付けられなかった。
https://salmosax.hatenablog.com/entry/2022/06/16/231110

今年6月に完成間近の連絡が来だしてバクバク、、ワクワクではない。大金ではあるし、ウクライナ問題で運送費は倍になったし、安い送金方法にトライしたが簡単な手続きではなかったし、ユーロの円安が進み、総額は当初予算より40万程高くなり、心臓を痛めながら為替を見る日々が続いた。そもそも取引相手は本物か詐欺ではないかと何度もネットで調べさえしたのだった。
その上に、心の底の脱サラ後の苦労が蘇っていたのかもしれない。

ミュンヘンを出発した楽器はだんだん近づき、税関から連絡が入り、半月後の本日73kgの荷物が配達された。
大きなことをやってしまって、それがやっと終わった感じ。
いくら日本に数本という希少楽器とはいえ、今後それで儲かる訳でもないしそんなつもりで購入した訳でもなく、まったく投機とは真反対。楽器の特殊性で自分の音楽性を売ったり変える気もなく、今までのように淡々と音を探求し活動する。
ただ、はるばる来てくれた楽器が悲しまないように、その存在を少しでも多くの人に知ってほしい。

今後はぼくのために作られた楽器の持つエネルギーに導かれていくのかもしれない。
大きさと重さの関係でどんなツアーができるのかできないのか、すべては流れだし、運命の悪戯に任せよう。

 

女性性

50年近く前、バンドもオーケストラも即興演奏も新鮮で純粋に作って挑んでいた。40年ほど前大分に移住してからのバンド「パッチワークス」や、2008年の「サルモサックスアンサンブル」などなどでは、楽譜とかルールを通して各人が感性をいっぱい出してくれることを希んできた。そう来たか、そんな音が、みたいに。完全にルールのない「即興演奏」においても相手が自分の本性から音を出すのを期待している。

いまの時代は、例えばある曲を練習するのに、既音源のネタをみんなで聴いて音合わせするようだ。すでにあるイメージを再現、それもいいけど、せっかく人が持っている感覚の音を永遠に封印していないか。ぼくにとって「一回性」は宇宙の宝に思える。

 

ぼくはアマチュアの心で世界に通じる音楽を目指してきた。そうしてメンバーを引き上げる作業を続けた。いやそうではなく、従来のやり方の外に出ることを促していたのだろう。テクニックでも特殊性でもなく、感情や意識の奥にある素直さを求めた。それがその人の音だから。

結局ぼくのやり方は時代にそぐわないままだ。今までやってきたグループは楽しかったものの、音に予兆を感じつつも実現には至らなかった。

 

宇宙的に女性の時代に変わったと言われている。ぼくは28年間呼吸法をやり続け身体や感性を女性に近づけようとしてきた。

20年前に脱サラして、音楽界美術界あらゆる世界が権威と力で成り立っているのを理解していった。自分の感覚を忘れ、人やモノそれ自体を自分で評価できない人々。音楽は音の中を観るものなのに、多くの人々は音楽を見てはいても聴いていない。

男対女という対立構図でもなく、女だけでなく男の中にもある女性性を引き出す時代。リーダー不要、依存しない自立の時代。

 

ぼくの映画「水の叙情詩三部作」でもそんなことを描かされた。

道具も技術も知識も意図もなく始めた映画制作。パソコン上でコマをドラッグしていく作業はタロットのようであり、夢中で撮り続けた膨大な水の表情たちはカードだった。そのカードや配置などから来るインスピレーションで自分の中のストーリーを知らされていった。今のこの世界が三部作の筋書きで動いているとすればおもしろい。

https://salmosax.com/cnm.html

 

なにかわからずただ違和感を頼りに感性でやってきたことが、ここに来てけっこう地球の流れに合致してきたような気がする。これから来る時代を求めていたのかな。ぼくや山﨑昭典との「サガイン」はそこに向かう。

 

コントラバスサックス

20年ほど前に突然23年半のサラリーマン生活に終止符を打ち、以後渡欧を始めた。パリの楽器店でバリトンサックスの更に1オクターブ低音のコントラバスサックス(tubax/チューバックス)を試奏、、、出会ってしまったのだ。

1999年開発設計とあるから、誕生してまだ間もなかったようだ。従来の他社製品に比べて小型化軽量化簡素化され、さすがドイツ製だった。音も良く楽に吹けた。大分はもちろん、全国でも多分数本しかない楽器だ。帰国後しばらく購入を考えたが経済的に断念。

 

その後、音楽活動の当然の結果お金が底をついて、それまで以上に節約を強いられてきた。そんな日々から学んだことは多く、ますます自分の価値観も変わり世界の仕組みもわかってきた。自分が「生かされた存在」との自覚も更に進んだ。そうした中、少しづつ貯金をしてきた。

 

2年前にふとチューバックスをネット検索していて製作本社(Eppelsheim )にメールしたところ返信が来てしまい、ついには予約注文をしてしまった。受注生産だ。おりしもコロナ禍の初期。そんな時期に貴重な貯金で買い物をする自分が妙に嬉しく誇らしかった。やはり運命というか溜めてきたお金はこのためだったのか。あるいは自分の潜在意識の具現化なのか。

 

純粋に音を探り作る音楽で得られる収入は知れている。どんなに世の中が変わろうと、今世に音楽活動で得るお金がこの楽器の金額を上回ることはないだろう。でもこの人生で音楽ができない生き方だけはいやだと思った翌日会社に辞表を出したのと同様、この大切な人生において、チューバックスを手に入れて演奏したいという衝動は尊く、その気持ちをもう否定したくもなく、それはなにかの示唆でもあろうし、それに従うのが人間本来の生き方だと思う。

 

奇しくも一般に最高音域のソプラニーノサックスのソロ録音を終えてCDリリースが決まった時期に、一般に最低音域のチューバックスの購入を迎える不思議さ。楽しい。

 

注文から2年が経ち楽器が完成するとの通知が来た。この期に及んでコロナの影響や円安や送金方法などでストレスを感じている小心者でもある。

 

ソプラニーノサックス

ソプラニーノサックス(以下sn)。アルトサックスの1オクターブ高音。

 

10年程前にsnでできたオリジナル曲の録音に何度か挑戦したもののうまくいかなかった。録音場所にこだわって曲が生まれた山の現地で行ったため、飛行機や車の雑音が入ったり、その他もろもろ障害が起きた。それ以来気乗りせず時間が過ぎた。

 

コロナ禍で停滞気味の空気感にいて、今のままではいかんと急遽決断し 数日後の 2/202/22 に屋内録音した。久しぶりのレコーディングで機材的支障もあったりもたついたが、演奏はスムーズに進み各曲3テイク位し終えた。

その後イメージも膨らみ全体の構想も決まり、それに基づいて選曲と編集をした。

仮音源でデンマークのレーベルからも快諾され、多分年内にCDリリースされる。

 

事が動く時ってこんなものなんだろうな。

 

サックスソロのみのCDはぼくも2枚出しているものの、一般的に多い訳ではなく、まして高音域のsn無伴奏ソロのみによるCDは世界的にもないかもしれない。

楽譜に書き表せない曲などを含めた曲集で、ちょっぴりストーリー性のある作品になった。テーマは「モリ」と言っておこう。

お楽しみに。

愛用のソプラニーノ

Salmosax!

ぼくのサックスたち(HPより)

 

冒険・探検の人生

ぼくはけっこう冒険・探検の人生を送ってきた。

 

山スキーは就職してから始め、全国の主な山々を独りで登り山頂から滑ってきた。そんな人が周囲にいるわけもなく独学だった。最初のシーズンは山スキーで歩き登り、ピッケルや雪中泊訓練、2シーズン目はスキー場で徹底して滑りまくり、いきなり北アルプスに臨んだ。

https://salmosax.com/mt.html


渓流のフライフィッシングも同じ時期に始めた。当時山岳でそれをしている人はほぼおらず試行錯誤だった。宮崎大分をメインに全国にヤマメやイワナを求め、アラスカとニュージーランドにも足を伸ばした。

 

いずれも既存の路はなく、自分でルートファインディングしあるいは路を作り崖や滝を超え、知識と経験と勘で危険を予測察知し、その結果得る渓魚や登頂と滑降は至福だった。

 

音楽は中学高校以外は概ねやってきた。大学から始めた即興演奏も自分で音を探す行為。音の中=エネルギー=魂、を視る。ルールも自分で作る。五線紙に書く作曲も即興も全部自分の音。既知の曲の演奏も自分にとって最良の音・演奏を瞬間瞬間に探す。

そしてやはり既存の路は歩まない。

 

山スキーも渓流釣りも音楽も結局自由を求めてきた。というより人間は本来自由なので、本心の欲求による正直な行為行動は創造になり、全て冒険・探検なのだと思う。

そんな当たり前のことをしているだけなのだが、自分の音楽(Salmosax)の説明をなかなか理解してもらえない。

「自分の音楽を探り作っている」と言うことばだけで通じる世界を求めている。みんなが自分の冒険・探検を楽しむ世界を。