salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

サルモサックス・イメージ

音には生音と電子音などあるけど、人それぞれに選択して追求したり楽しめばいい。以下は自分の個人的表現・作品についての考えで、共演や共演者についてではない。

 

 生音(アコースティック)は怒りなどのネガティブな気が多くなければ音の粒子が細かい。
20数年続けている呼吸法でもそれらを波動(気)という言い方で理解してきた。生音の中には厖大な情報が含まれていて繊細な音は宇宙に繋がりエネルギーに満ちている。
だから、小音や無音や微細な変化を聴くのが難しい時代に、電気やマイクを使わず音の探求をすることで挑戦してきた。

 

ところでぼくは映画を作ってしまった。映像という人が多いが「映画」なのだ。電気は音や光の質と量を著しく削り変容させるのを受け入れて、映画という形式の中に表現の可能性を探った。だから作品は自己完結しており映像ではない。

 

 

初めてサックスソロ用の音付き映像「サルモサックス・イメージ」を作った。
やはり被写体は水のみで「映画」との差別化も考えて動画でなく写真だけを使用。10年ほど撮りためた写真はけっこうあったものの、やはり量的に苦労しつつ未公開中心に選択。それにサルモサックスアンサンブルとして作っていた音源を使い制作した。
過去に自作無音映像や自作カラオケを使い演奏を試行したことと映画作りがつながった。そして「サルモサックス・イメージ」と「共演」することで成立するプロジェクト。

 
・人を錯覚させうる電気の力で作ったこの映像が、人の感覚でなく意識に働きかけてしまわないか。
・粒子が粗い音や光を使うことで自分のサックス吹奏の価値や意味を貶めないか。
・そもそもサックスソロは完結していて不満はないのになぜこんなことをするのか。

 
こんなことを考えながら、また後ろめたさを感じながら、一方でもちろん楽しみながら作った。
形式的には珍しい形態ではないが、自分なりの観点・美学に基づいた試行錯誤と挑戦ではある。なんであれ閃いたこと、この流れに身を委ね楽しむとしよう。

「サルモサックス・イメージ」初公演は3月のベトナムサイゴン。続いてハノイ。3月末に大分でもできそう、かな。

 謹賀新年 2019


明けまして おめでとうございます。




まだスケジュール表はほぼ白いままですが、いくつか書くと:


3月 / ベトナムツアー
4月 / ハルリ 夜桜公演
5月 / サガインツアー
9月 / サガインツアー


などですが、これから色々なことが起きてくるでしょう。楽しみにしています。




本年もよろしくお願いします。

 2018年覚書

【ソロ活動】
寒い冬から逃げて1月は沖縄。2-3月はタイ、ベトナムミャンマーのツアー。3度目の訪問で実現したヤンゴンミャンマー)のライブは感無量だった。
その他、東京、金沢、京都、大阪公演。
11月に台湾ツアー。6公演すべて映画も上映し、また高雄市の樹徳科技(Shu-Te)大学で公演することができた。



【サガイン】
5月、山崎昭典(ギター)新加入によるニュー・サガインでいきなり台湾・大分ツアー6+2公演。これは自分にとって初のひとりではないツアーであった。
続いて9月には東京、甲府、名古屋、大阪、神戸、京都ツアー8公演。
12月は大分公演とレコーディング。
(アキ)
https://www.youtube.com/watch?v=NX7JAvedvdI
(サガ)
https://www.youtube.com/watch?v=OwdFyzoMnHQ&feature=youtu.be



【イベント】
10月、家の南に位置する聖なる山域にある池の水を撮影して作った映画「ハルリ」を、当地の県関連管理団体との共催によってハエちち(ダンス)を交え上映するイベントが大分県青少年の森展示館でついに実現。



【CD】
昨年の大阪ライブがCD化(LIVE AT FUTURO CAFE /jigen 019)。
(山内桂/サックス、千野秀一/キーボード、宮本隆/ベース、木村文彦/ドラム)
EURO ROCK PRESS に掲載された。自身14枚目のアルバム。
http://jazztokyo.org/reviews/cd-dvd-review/post-32668/



【映画】
12月に Inshort Film Festival から突如映画祭入選の知らせ。水の抒情詩3部作の内「ハルリ」と「フウア」(ホフネンは期限外)、それに昨年の田植え祭の記録映画「栗灰」の3作が選ばれた。これにより入選数は、ホフネン2、ハルリ7、フウア5、栗灰2になった。
(ハルリ)
https://www.youtube.com/watch?v=MnstbTnLVfM&feature=youtu.be
(フウア)
https://www.youtube.com/watch?v=e5EPMomrhoU
(栗灰)
https://www.youtube.com/watch?v=KibUmX05fuk



【その他】
岩下清香とのフルフル結成。



こんな1年でした。


みなさん、よい年をお迎えください。

 ハルリとサックスとダンスの午後

家の南の急崖下を流れる七瀬川を挟んで広がる山域(霊山、障子岳、本宮山等)は豊かな自然を残し、その大部分を占めるのが大分県県民の森。そこに20数年通い続け、ある小さな池の水を撮りためて作った映画ハルリ(2014年)。6カ国の映画祭に入選したハルリを撮影現地にある森林学習館で自主上映、池畔でソロ演奏したのが 2015年11月。


ハルリは自然からの贈り物だと撮影時から感じていた。だからそれを世界に伝え還元したかったし、公的な企画を望んでいた。経緯は省くが「大分県県民の森管理事務所」との共催としての事業が実現する。
10月21日(日)13:30。ハルリ上映と、福岡の「ハエちち」宮原一枝と徳永恭子(ダンス)とサックスとの響宴。
夜の森での実現は将来の夢として、今回は樹々や昆虫や鳥や動物の剥製を展示している部屋の使用を思いついた。下見で軽いテストをしたが、思った以上の面白さ、あるいは凄みさえ感じた。ある意味死の部屋に生命を吹き込むような!


芸術・現代アートと自然の関係は必ずしも良くなかったように思う。だけど単純に言って自然はすべての基本だ。冬山や渓流をさんざん遊んできた者として、自分はそんなことを伝えられる表現者なのかな。
大分の「県民の森」は全国で北海道に次ぐ面積を有し、その有効活用を模索している。それについてアート的なアプローチを提案した。いま時代はそう動いている。山の体験的行事や普通の演奏会などはあっても、もっと踏み込んだ、山や森や水や風と一体となるようなアート、、。そんな思いを汲み取ってもらえたことを感謝している。美術館とは一味違う、画期的なイベントで新しい方向性だと思う。



“誰もが見ていて誰も観ていない池のシュールなおとぎ話”
と謳っているように、春夏秋冬、昼も夜も、大降雪時も台風時も通い、見せられた映像群。いつも優しく包んでくれるこの地。でもザワザワと居ることがはばかれる経験もした。
水の精が見せる水の抒情詩3部作の第2作ハルリ。



”小さな池は語りかけています。ときおり怖いのですけど。
バラバラになった世界がひとつに向かい、そして祭、、、
水の精が水を通して宇宙と人の心を映して問います、「もういいかい?」”



*この映画で歌っているのは大分の歌姫、二宮綾子。それに福岡の倉地久美夫が参加していることは見逃せない。
(以上敬称略)



(ハルリ予告編)
https://www.youtube.com/watch?v=MnstbTnLVfM&feature=youtu.be

(イベントページ)
https://www.facebook.com/events/1888997261395192/

(映画HP)
http://www.salmosax.com/cnm.html

 Live at Futuro Cafe

この10月1日に自身 14枚目のCDがリリースされた。
http://www.salmosax.com/mc.html
大阪のベーシスト宮本隆氏の運営する時弦プロダクションによる「Live at Futuro Cafe」。
https://blog.goo.ne.jp/stillgoo/e/87a830a7fc2ffeb6c3a7f9cb78afa3bd

なかば偶然にできた作品だけど幸運だった。澤居大三郎氏の録音によるところも大きい。


メンバーは他に:
千野秀一(キーボード)
宮本 隆(エレキベース
木村文彦(パーカッション)


これで、脱サラ翌年2003年の初CD「SALMO SAX」以降の内訳は:
国内盤自主盤7枚。フランス録音の国内盤1枚。国内録音の海外盤(スイス、デンマーク)3枚。海外録音の海外盤(デンマークポルトガル)3枚。
また、ソロ等4枚。日本人との共演盤4枚。外国人との共演盤6枚。
それぞれ、国内国外半々というところ。


2013年後半から今日まで、CD制作の計画をしても中々進まずにきたが、2013年12月「フタリコレクション」4と7の2枚(Ftarri Festival に2回出演した際の音源)が出るし、2016年突然にポルトガルから「3 Rushes」の続編「Presence of air,,,」が送られてくるし、今回も2017年に行ったライブ音源が意図せずCD化され、続くタナボタ的現象に驚いている。


このへんでそろそろCD制作に取り掛からなければ、、。

 感情と音

若い頃、戦争や争いとかを避けるためには理性が大事だと思った。感情の悪循環・悪連鎖に陥らないために、物事の論理的な分析理解が必要だと。
そうしてぼくの音楽表現は矛盾だけど尖ったまま感情を避けたものになっていった。ジャズやフリージャズや即興演奏や政治的音楽に多くの怒りの音を感じ、そんな暴力的な音を排除したかったのもあった。できるだけ音に情を乗せないようにしてきた。それは間違いでもなかった。中道・中庸の立場から人間の深いところにあるナニカ、感情レベルではないものを表現したかった。音の波動を高めたかったのかもしれない。


自分の枠が大きくなってきた分、情愛的(怒りではない)な音が枠内に増えてきた。
例えば、サガインの音楽性は常識的でない色々な意味合いがあるのだけど、そのひとつが情愛的な音が多いこと。優しい音と言ってもいいかな。
そんな当たり前すぎると思われようが、ハーモニー(コード)に合った音を出せばいいと気づいたのが数年前という、人と微妙に違う人生を送ってきた人間だからしようがない。
でもそんな常識を常識と思ってなかった人の音にはまた違った重要性があるとも思う。それらを最初から疑わずにきていれば多分普通の音楽をやっていたろうし、とっくにやめていたかもしれない。
それに「情愛(優しさ)を表現した音」なんて嘘っぽい。


で、結果的に情愛音を封印してきたことに気づいたのだ。感情を否定していたようだ。自分を否定していた。
感情を大切にして感情に囚われないことが大事だった。
そんな変化が自分に起きていて、音に表れている。


ぼくの人生は人とずれていたり逆なことが多く、48歳で20歳でやるような音楽修行を始めたり、上述した音楽の常識を今更自覚したり、なかなかに面白く大事にしたい人生だ。

 霊山道

ハルリ池のカフェのあと、あまりの暑さにどこか涼しい神社で休もうかと車で山を下っていて、小沢を鋭角に横切る所で閃いてその道路上で涼をとることにした。何度もなんども通ってきた道だけど、そこでゆっくり過ごす発想はなかった。車の離合も難しい狭い山道で、そこもそんなに駐車スペースがある訳でもなく、気持ち良く好きな道ながら早く抜け出ることに集中していたから。でも神社でなくとも霊山(りょうぜん)中腹のそこは神の胎内だった。


日本中の山岳渓流を駆け巡ってきた。その時の出来事の記憶でなく感覚の記憶が一瞬に蘇った。言いようのないしみじみとした淡く寂しく嬉しく懐かしい感覚に涙がにじむような、木や草の匂い、水の音、蝉の声、沢筋を降る風、覆い被さる樹々、などなど。


あー、これこれ、いつもずーとこれに包まれていたんだ。なんてなんて心地よい。
あー、これが優しさだと気づいた。


人はこんなにも優しさに包まれていたんだなあ。それを壊してきて、そしてその結果はやって来る。それを嘆いたり怒ったりしている。
わざわざ優しい場所を壊して優しくない場所を造り住み幸せだと言い聞かせ優しさを補う消費財を買いでも優しさに程遠い環境を呪いあるいは気づかず。


高度経済成長の終焉のおかげで開発されず取り残されたこの県道、数時間に車4台バイク1台人ひとりがぼくの足先を通り過ぎていった。