salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

 釜山行

9月1日。博多港を発った高速船だが、海はけっこうなうねりを見せていて3時間無事にはすまないと思ったが、その意外な安定性で難なく釜山港に着いた。誰も知る人のいない初めての土地。
レジデンス主宰のソンベクの車でさっそく街のレストランへ。10人程のアーティストたちは飲食の最中だった。韓国はもとよりアイスランド、フランス、ドイツ、イギリス、日本の面々。すでにかれらは市中でのパフォーマンスなどを行っていて、その締めくくりのフェスティバル前夜だった。


フェス当日。会場の2階建の大きなカフェ”Merge?” でダンス、音楽、ペインティング、インスタレーションが次々と展開していく。最後のパートに参加し、ソウルの Ramoo(舞踏)と2、30分デュオ。
数時間に及ぶ、なかなかに素晴らしいイベントだった。お客さんもそこそこいて、特に多くの子供たちが印象的だった。当然熱い打ち上げは深夜に及んだ。


翌日から、1人、2人とアーティストは去っていった。ある者はソウルへ、ある者は済州島、ある者はフランス、ある者は日本、、。
言うまでもなくかれらは自由人で、大分での日常を忘れさせてくれる日々を楽しんだ。でも一方でかれらの中に潜む病や傷をも感じるのだった。それはかれらが正直に生きている証で、完全ではない人間が本来みな持っているはずのものだけど、一般社会ではそれを押し殺している。病気になれる身体がいいのと同じで、自分にフタをしない生き方と言えよう。


1週間滞在した ”Art in Nature” は山の中腹の自然の中にあり、街にフラフラと歩いていける環境ではなかったし、アーティストたちとの交流も貴重なことだった。なので基本下界と隔離されて過ごした。


滞在後半、助けを借りて街にルーツ探しに出かけた。今回の大事な目的、、。


地元のハナちゃんがバスを何本も乗り継いで亀浦(クポ/きほう)駅に連れて行ってくれた。そこは祖父の家があった所。旧住所と20数年前の写真はあるが、彼女の韓国語がなければどうしようもなかった。近所の人たちの応対は優しく、目の前の線路沿いに延々続く日本兵の虐待の大きな壁画とのギャップは不思議だった。
大きなビルが建っていたが道の痕跡はあって、ほぼ旧居住地を確定することができた。駅から1分位の距離だった。
そこからすぐの大河、洛東江には家宝の刀が沈んでいる。敗戦を受けて、祖父は刀が米軍の手に渡るのを拒み、ある夜娘と船に乗り沈めてきたという。
三ツ銀杏(ミツイチョウ)の立物が付いた甲冑は、多分アメリカのどこかにあると想像するが、今生に見ることが叶うだろうか。


滞在最終日。ぼくの演奏を聴いた女性のキムさんとチェーさんが車で案内してくれた。
まずは亀浦駅を起点に背後の山へ。少年だった父の遊び場。でも今は住宅が上の方まで広がり、お寺から伸びる山道を見つけ、そこでやっと山を感じることができた。
そして現釜山中学・高校、旧制釜山中学へ。そこの学生たちは父の後輩なのだ。
駆け足だったが、広い釜山広域市、車がなければそれらを廻るのは難しかった。


そう、まったくかれらのおかげだった。英語が通じず、ハングル文字ばかりの中での行動は難しい。市井の食堂、飲み屋も楽しむことができた。ありがたい。


山内家や父の足跡を辿る旅は、個人的な感傷だけが目的ではない。
父は韓国やミャンマーの人々を愛していた。情報としての知識でも操作された知識でもなく、現地に身を置くことで紐解ける父や人々の心を感じたい。そのためにミャンマーを訪ね、そしてやっと釜山に来た。近くて遠かった。
この道は、音楽はもちろん宇宙にも繋がっている。だから今回も今までも導かれ助けられてきた。だから次には、いくつものドアを開けていく。
母方の釜山での情報は、もう、ない。


(注)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


*韓国は戦前のある時期日本だったため多くの日本人が居住していた。そして太平洋戦争に負けて日本人はすべてを失って内地に送還された。そのことを引揚げといい、かれらを引揚者と呼んだ。


*韓国の山といえば禿山。でも今回行って見るとけっこう森に覆われていた。地域差なのか、時代が変わったのか。韓国人に訊いてもそれはすでに死語のようだった。