salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

 ビルマ 1 (ラングーン)

12/6 日本人とそっくりな人々が、公用語の英語で生きたコミュニケーションしている、チョット不思議なシンガポールを去る日がきた。
演奏会の翌朝に外国に飛行機で移動するパターンは難儀で、この日もほとんど寝ずに空港へ向かう。電車の乗り継ぎをチョイ間違えながら。アブナイアブナイ。
いよいよベールの国ミャンマービルマ)へ行くのだ。3週間のアジアツアーに続いて1週間のプライベート旅。今迄結構旅をしてきたけれど純粋な旅はあまりなくて、この日ホテルに行くのだけが目的で、会う人はいないし目的もなかった。いつも主催者に会い、そして聴衆の前に立つ前提と目的があった。


ミャンマー訪問に際して、演奏会をすることは早々に諦めた。あまりに情報がないし、ぼくがやってるような音楽シーンはないと思えた。
それでも訪れたのは未知の国であり、三年前に他界した父の愛した青春の地だったからだ。
多くの犠牲になった兵隊たちに申し訳ないといつも言っていた父だが、貨物廠配属の上に英語が話せたため、物資にも食料にも事欠くことなく、ビルマ語も交えて現地の人々と楽しく交流して遊び、オープンカーで一緒にシャン高原やあちこちドライブしたらしい。部族長が娘をめとって欲しいと言われた、みたいな話も聞いている。
ヤンゴン(ラングーン)やマンダレーなどにも居たようだが、主な勤務地はマンダレーのイラワジ川対岸にある、悲劇のインパール作戦の最終補給地サガインだった。
さすがに終戦間際はラングーンまで逃げるのに苦労し、途中で恩師の先生率いるトラック隊に遭遇して昼は隠れて夜間だけ走ったとか、漁師に頼んで舟に身を潜めて下ったとか、マラリアにかかって仲間がミミズを煎じるかなにかして助けてくれた、とか聞いている。
その後武装解除で捕虜になり、「戦場に架ける橋」みたいな鉄道敷設に従事するも英軍の紳士的対応に感心し、英語で交流もあったようだ。


眼下にせまってきたビルマは薄茶色の大地が広がっていた。
着陸したヤンゴン空港に飛行機は少なかった。なにしろビザがいる国なのだ。でも入国手続きはあっさり終わった。そして空港の扉を出た途端に混沌の中に放り出された。バスもタクシーもあるのかないのかさえ分からない。手を振って呼んでいる男はタクシーの呼び込みだった。そもそもメーターはないし、仕込んだ情報の金額を手がかりに交渉して乗り込むと、勝手にスーツケースを運んだ男からチップを請求された。この男はなんだったんだ、と思うも面倒くさくて1ドル紙幣を渡す。なんなんだ、この国は。前途がいきなり思いやられた。
テレビ番組に出てくる所謂未開発国的風景の中を恐ろしい気合いで車たちは走る。やたら多いつながれてない犬たちと人たちは車たちと曲芸を繰り広げていた。
それでもタクシーは予約したホテルにちゃんと着いてくれたし、ふっかけとかもなく、やれやれと安堵したのだった。


散歩がてら昼食に屋台でラーメンみたいなミオミシンを食す。まずは屋台のお世話にならなければ失礼というものだろう。激辛そうな調味料はご遠慮願ったが、それでも辛くそして美味しかった。50円也。
街にはかわいい子供達が多い。働く兄ちゃん達も多い。ヤンゴンが大都市といえども、家族というものがまだ崩れてないことを感じた。かれらの歌を口ずさんだりする自然な振る舞いに、子供の頃の日本を思い出した。ロンジーという巻きスカートみたいな民族衣装も実にいい。そして僧侶たち。
ただ不釣り合いな光景、、、それはスマホの普及で、それは世界のどことも変わらなかった。そういう時代なのだとあらためて思った。