salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

 文字的ことば

例えば音楽を語る時、あのミュージシャンがいいとか、あのジャンルが最高とか話すとする。
それはいい。その時に自分はあの◯◯に共鳴したという意味だ。
問題は、その共鳴した「心」を忘れて「ことば」に縛られてしまうことがあること。


本来「ことば」は人の奥深いところに直結するもので、「ことば」自体が生きたものと考えられていたという。「ことば」はまず「声」であり、楽器の「音」にも近いかもしれない。サルモサックスは細胞レベルのコミュニケーションだとプロフィールに書いたが、音には様々なものが内包されている。
対して文字は物質的で道具だ。「ことば」と「文字」はイコールのように錯覚しがちだが、その距離は遠い。
とはいえ、古来「文字」を「ことば」に近づけようとする努力があり、その上ではさして問題ないのかもしれないが、今日のバーチャルな社会で「ことば」は文字化していないか。
もしかして音楽も「文字的」に聞いたり演奏する人がいるのかな。


話を戻すと、自分のその時の気持ちを言ったはずが、「文字的ことば」が脳を固定し他を否定する。「ことば」を出した本人もしゃべった瞬間に「文字」に縛られる。聞いた方も自分が否定されたように感じる。
ミュージシャンAは最高であり他のミュージシャンはだめ。ジャズはいいがロックはだめ。こんなレベルの議論はないだろうか。
「文字的ことば」は自己肯定する。他者否定する。議論を好む。そのため対抗軸を求める。


「文字」のない時代、「文字」を知らない人間、の感覚や思考に思いを馳せる。
文字を知ってしまっている自分が音楽をする時、そんな感覚も求めているのかもしれない。