salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

 祝子撮影

祝子(ほうり)の地に足を運んでどれほどたったろう。
何度一人で訪れたろう。
多くの色々な人々を連れてきもした。
少しばかりのお礼に、フォトアルバムを添えたCD「祝子」を捧げた地。



いま取りかかっている作品は祝子だけに限定しないつもりだが、それでも比重は大きくなりそうだ。
テーマはやはり水と光、それに音 (SALMO SAX)。
撮影のために昨年の春から折々に訪れている。とりあえずそれぞれの季節を撮っておきたい。


天気予報を調べ、日程を調整確保して 1/17-18 この冬2度目の探訪。
今冬の寒波で、山奥の祝子集落は水道が凍るほどの寒さなのに雪はなかった。
冬の日は低く短く、力は弱い。夕方まだ明るくても渓谷の水面に陽は届かない。

快晴だった。
「絵」は白をイメージしていたが完全にはずれ、予想通りに「予想もしない」プレゼントが準備されていた。
「氷」だった。
冬の祝子川はこうしていたのか、と面食らうほど眩い渓谷の中、よく見るとここかしこに水の結晶「氷」が。
卵様の、水晶様の、柱様の、波様の、飛沫様の、、塊がピカピカと、ズッシリと、静かに、鈍く、軽やかに、、輝いている。
こんな形、光、動き、だれに想像できよう。
山スキーで日本中の山々をめぐってきたが、膨大な量の雪に覆い隠されて「氷」の出番はなかった。あってもこんなに繊細な表情は見たことがなかった。
南国宮崎の渓流と寒波と太陽が作り出した奇跡だったのかもしれない。
氷を滴る水、氷の下をくぐり流れる水、そして突然音を立てて崩れ落ちる氷塊にあッと声が漏れる。


即興演奏をする時のように、「在る」ものや「来る」ものを感受する白紙の心があらねばならない。
いつもそう信じて実践に努めてはいても、「感受」は保障も確約もされているわけではないので不安は、ある。
それだけに思わぬ音や光や出来事をプレゼントされたときには嬉しくて感謝一杯になる。「準備」や「予定」の計算された世界では味わえないコミュニケーションだ。
人が生きるということは本来こんなことなのかもしれない。


もうひとつプレゼントがあった。
祝子渓谷の流れの中央部に数本の赤松と大岩が気持ちの良い休憩場所を提供していて「松の茶屋」と呼んでいた。
2007年、台風が谷を直撃した。ちょうど山小屋に「祝子」の録音で滞在していた時のことだった。地形も変わるほどの激流に松は2本を残しなぎ倒され流された。とても悲しかった。
ところが、まだ痛々しさの残る岩と砂だけの荒々しいその一帯に、松の苗が群生していたのだ。
その自然の力とバランス力に、そしてなにより松の生命力に、手を挙げ声を上げ飛び上がった。嬉しかった。