salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

 続・沖縄報告

salmosax2009-07-28

こうして5公演・講演は楽しく終ったが、その合間に主催者は観光案内もしてくれ、終了後もひとりで久高島に行ったりして、計10日間を過ごした。
この沖縄本島だけで9カ所も世界遺産があるのだ(城や御嶽など)。芸大のすぐ近くにも首里城があるし、隣接して玉陵(タマウドゥン)がある、といった案配。


城(グスク)は首里城、勝連城、知念城、中城(ナカグスク)を訪れたが、いずれも石垣の微妙なカーブが美しく、アーチの門がついている。それらを見ているとアイルランドにも南ヨーロッパにも見えてくる。
また城には御嶽と井戸がセットになっているようだ。井戸については生活レベルでも沖縄では水が貴重だということだろうが、その扱いや存在感からそれだけでない気もする。
立地的に東シナ海と太平洋を見渡せる要衝が多く、その美景に強烈な太陽と心地よい風にクラッとくる。
中城の小さな御嶽でパラソルの下3、4人がお祈りをしていた。青森の恐山で見たイタコの光景と重なった。


沖縄には御嶽(ウタキ)というものがあるが、内地の神社とも違う。柏手もしない。神社の原型と思ってはいるがどうだろう。
いくつかの御嶽をめぐったが、観光化によって人が増えて以前と気配が変わったと聞いた。
極端に言えば、平均化(俗化)していくのは人類の本能と歴史でもあるが、実はその違いにこそ意味があるのだと思う。
例えば身体的に山に登れない人のためにロープウェイをつけるのではなく、登れないことから何か答えを得ることが求められるのではないか。
いわゆる「神聖」な場所にわざわざ「俗」を持ち込むことはない。「俗」がいけないのではなく、むしろ必要なのだがその居場所は別にある。生物の多様性が重要なのと同様に、その居場所や立場や違いに対する感覚と理解の先に、自由や平等はあるのだろう。神や妖怪の居場所は大事にしたい。けじめは大事だ。
それは音楽の「ジャンル」にも通じることだろう。
ぼくの即興演奏は「集中」(意識ではなく感性の集中)の上に成り立つ音楽だと定義していて、それが自分のジャンルだと思っている。そして「ジャンル」によって「表現されるもの」が違うのだと思う。


もっとも重要な聖地のひとつ、セーファ御嶽に行った。そこからは小さな小さな島、久高島が望めた。
大きな台風の時、波が西から東に島を超えた、というくらい小さい。
船で2、30分のその島に2泊した。
沖縄の原点であり、神の島として知られ、島そのものが神であり、島人は神人であり、多くの風習が最近まで残っており、、、イヤやめよう。
話す資格もないし、説明できるものでもない。
看板もない小さな御嶽らしきものを見つけた。森の小道を進むと小さな丸い広場が見えた。そこでストップ。特に男は禁制、入ってはいけない。森に囲まれたその中央に日が射していた。優しい感じがした。
本島の御嶽は大きな岩場やその割れ目が多かったが、ここは違った。


夜、浜でサックスを吹いたがだめだった。雑念がいっぱいだった。


何人かの知人のミュージシャンがここで演奏会をしたと知った。


22日、ここで日食(90%)を見た。そのために来たわけでもなく偶然に。この島で見られたことが嬉しい。


旅の最後は那覇国際通りで還俗して帰途についた。