salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

 ハンガリー映画祭

「ホフネン」/HoFuNeM


何もわからずに、でも流れのままに映像に手を染めていた。従来のやり方も知らずまた束縛もされず、音楽と同様に、感じるまま思うままに。


発端はまさに気違いのように渡り歩いてきた渓流だった。
渓流魚を求めてのそれは一方で自然と一体になりたい願望でもあった。渓流魚の美しさはいうに及ばず、自然の美しさは完璧だったし、凶暴さや醜ささえ伴っていた。釣師の眼は水に注がれ、常人が見ることのない光の表情を見、違う角度で光を捉えてきた。水の流れを見るだけで心臓は高鳴った。それは音楽家が音に高鳴るのと同次元のことであり、それを映像化したいという衝動が生まれた。
カメラの技術も知識もないままに写真を撮り始め、それをCD「祝子」に写真集として収めた。その延長上に映画が視野に入って来た。
あくまで音楽を活動の主軸に置きつつ、自分の音楽を視覚に直結できるメリットもあった。


わけもわからずとにかく最低限の機材をそろえ、撮影を始め、つまらぬミスを重ね、後追いで編集方法をやっとこどっとこ勉強しつつ、映像を選んで置いていく作業を続けた。
撮影現場の多くは宮崎の祝子川だったが、大分の近くの池や湖にも通った。
山の神様はいつも思いもかけない「絵」をプレゼントしてくれた。知識や計算や意志では計り知れない、それこそ人知を超えたそれは、「足で稼ぐ」こと、つまり行動と感謝があって得られるのだろうと思う。
そんな「いただきもの」を並べていくうちにストーリーが見えてきた。本来、音楽は音楽で、映画は映画で完結しているわけで、それは言葉に置き換えるものではなく説明の必要はない。ただ少し話すと、30数年全国(海外も少々)の冬山や渓流で遊んできて、自然と少しは親しくなれた自分の身体を通して、自然からのメッセージとして出てきた音や映像なのだと思う。その中には宇宙の真理や価値観、そして警告も含まれていよう。そしてなによりも未来があるのだと思う。


そんなストーリーの最後に「画龍点晴を欠く」なのか、「蛇足」なのか、、、点を入れる問題が残った。つまり象徴としての「水の精」を入れるかどうかを最後まで悩んだ。
またその問題以前に水の精のモデルのなり手がなかった。素人で実績のない自分にそれは高いハードルだった。チラシも配ればナンパまがいなこともした。閃いた水の精のアイデアに対して努力しない選択肢は自分にはなかったし、それこそ答えは「神ぞ知る」であり、どちらに転んでもそれは運命だと思っていた。まあ、白状するとほとんどだめだと思っていたのだが、最後まで諦めだけはしたくなかったのでジタバタしていた。
それともうひとつ。テーマ曲「カゲ」の歌手の問題も残った。
モデルはなくても「ホフネン」は完成できるが、この歌を抜きには考えられなかった。他の音楽は自分が演奏すればいいのだが、「カゲ」には女声が必要だった。この曲に付けた意味のない歌詞の冒頭が「ホフネン」なのだから。それに歌の主は「水の精」を想定している。
実は早い時期に歌手は決まっていたのだが、ある事情で急遽キャンセルになってしまったのだった。そのため残りの数ヶ月間アタフタ探しまわり、最後の1週間の時点でまだ決まっていなかった。
しかし制作期限のラスト4日間に、モデルも歌手もDVD作成他もろもろの問題すべてが片付いて劇的に完成した。
広瀬帆南は低体温症になりながらも9月下旬の祝子の水の中に入ってくれ、「水の精」のおかげで作品は引き締まった。
そして歌は「えでぃまあこん」のえでぃが快く引き受けてくれ、録音を送ってもらった。


実はこの映画「ホフネン」はすべて「水だけの映像」で、また歌以外の音楽はすべて自分のサックス演奏による、「サックスだけの音」で成り立っている。自分の自然の体験とサルモサックスを凝縮したものともいえる。
2年半の撮影。過去のライブ音源や新たな即興演奏や新曲など全10曲。40分。(35分30分等バージョンあり)


映画製作はこれからも人生の中のひとつの作業として続けていくだろう。
プロとかアマとか、知り合いだからとか、肩書きとか有名だとか、、、社会的な価値観はもういい。その外での制作や音楽活動は厳しいし、自分の音楽や映画の評価もわからない。でもそれが通じる人は世界の中に必ずいるという信念で続けて来て、それがハンガリーでつながったことの喜びは大きい。
ハンガリーの国際映画祭:MEDIAWAVE - "ANOTHER CONNECTION" '2013 の Special & Thematic Film Programme に選ばれて、4/30〜5/4 上映される。)
http://mediawavefestival.hu/index.php?modul=filmek&kategoria=511&nyelv=eng