salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

 冬の作業

ここしばらく演奏会がないという意味では暇なのだけど、だからこそすべきことできることがある。たっぷりの時間をゆったりと生かして使わなければバチが当たるというものだろう。


いつもの宮崎の山奥、祝子(ホウリ)の山小屋に「冬」を求めて4泊してきた。でもさすがに南国で、暖かいし、半分は雨だったし、雪も氷もほとんどなかった。おかげで撮影はできなかったが、録音など色々な作業を質的に進めることができた。「質」というのは、量的には少しだったけども、正月だし、寒いし、演奏会がないし状態で、怠惰な自分に活を入れられて、企画の作業も確実に1歩前進した、という意味。
20数年この地を訪れてきて、釣人の鋭い視線を渓流の中にだけ注いでいたことを知る。今は釣竿も持たずに川面を見ている、かつてなら考えられない自分がいる。最近、以前は目にも入らなかった祝子川神社によく詣る。「川」が付くところがにくい。普通であれば地名でもある祝子神社となるだろうに、この地に占める川の存在が大きい証なのだろうか。
もうひとつ、某遺跡を知った。そこに何かがあることは知っていたけど高をくくっていた。今回初めてそこを訪れて、少々驚いた。現在50余戸という限界集落だけど、太古から人々が引きつけられる何かがある地なのだろう。ここの人口は時代によりかなり増減があったらしい。地球の膨張縮小の動きや、生命の繁栄と衰退絶滅などの動きと同じだ。


大分に帰った翌日、寒波の来襲を聞いてまた祝子を訪れたが、渓に変化はなかった。結局半端な寒さだったのだろう。
北国の雪が作る造形に対し、南国には別の冬の顔があり、その代表が氷だ。雪国では膨大な雪により繊細な水の結晶は期待できない。冬の尾瀬沼も訪れたが、すべて雪に覆われてただただ雪原になっており、それはそれで感動したものの、巨大なつらら以外に氷は楽しめなかった。 昨年の祝子川のそれは、やはり奇跡的なことだったのかもしれないし、川からの贈り物だったのだと思う。
某遺跡で奉納演奏をして帰った。


大分に帰った翌日、更なる寒波が襲来したので、急いで大分の山上の池を訪れた。今冬2度目だが、前以上に氷がしっかり張っていた。氷もあれば雪原もあれば水面もある!変化に富んだ開けて広い湖面は、青い空や夕焼けも映し出していた。
ぼくの車は10年モノの軽のワンボックスカーだけど、ターボと四駆、それにスタッドレスタイヤを装着している上、寝袋数個にマットやコンロも常備されているツワモノなのだ。
そして白状すると、雪の声を聞くとじっとしていられないのだ。北日本は豪雪に泣いているのに、ノーテンキな話で恐縮、、、。
素晴らしい映像を撮ることができ、冷えきった身体は温泉で完全にほぐして帰った。


これらの行動は社会的な時間制約の中で生きる人々にはは難しいが、自由な時間を多く持っている今、「その時」に出会う時間を享受するのは、権利というより義務のようにも感じている。ガソリン代を考えてブレーキがかかるのが悲しい。