salmosax note

音楽家・山内桂 の雑感ページ

 告白・音楽家の夢想

今までに書いてきた文章と重なる部分は多いが、今回は曖昧にしていたことをより本音で書いてみよう。


8年前に脱サラをしたのは、当時の状況が音楽を続けるかどうかの選択を迫っていることに気づいたからだった。そして翌日に辞表を提出し,プロとしての音楽活動を始めた。
以降、より直感を生かし感覚を磨く中で、少しばかり不思議で嬉しい偶然や出来事が増えていった。目に見えないなにかの流れに乗ったような、少なくとも流れに触れているような、、、。以前にはそんな流れがある事すら知らなかった。自我が見えなくしていたのだろう。
人はその流れにいることで、宇宙の循環の中に漂い、生きられるのではないかという確信めいたことを思うようになった。
自分の即興演奏についても、自分が演奏するというより、どこかから音がやって来るというようなものに変わった。
そんなもろもろの体験をしながら、自分の音楽表現や活動はある出発点に至るためにあると思うようになった。そこから何をするのかが楽しみになった。


一方で、自分の演奏が一部では評価をいただきながらも、どうも不評というか無関心というか無視されてもきた。
自分の演奏がいいなどと言っているのではない。きらわれても否定されてもいい。自分の未熟さも承知している。そんなことでなく、演奏中に起きている音の明滅や化学反応やエネルギーに、人々が気がつかないことに不安を持つようになったのだ。頭で分析したり理解しようとするばかりで、音そのものを聴いていないのだ。耳ではなく身体で、音の表面ではなく音の中を、見ること感じること捉えること。好き嫌いはそれからのことだ。
そういう意味で「サルモサックス」が認知(評価ではない)されない世界は厳しいと言ってきたし、そのためには価値観が変わらなければならないと思うようになった。


学生時代に「士農工商穢多ミュージシャン」といわれていた。
かつては神につながる職能の人々(神人、巫女、遊女、行商、芸能、大工、等々)は畏怖され、かつ天皇の庇護のもとに身分が高かったことを最近知った。
南北朝時代天皇の力が落ち市民が力をつけることにより、反動的に畏怖や畏敬が差別に転換したらしい。それは合理主義や効率主義の台頭による見えないものの駆逐の始まりだった。
もちろんそれは、大きく見ればもっと古代に遡ることができ、また世界的にも同様なことが起きた。それは損得とかの計算によるエゴが「心」をむしばみ始めたことを意味し、文明はそういう価値観の結果にできたものだと思う。
現象的歴史的には産業革命がその転換期として言われているが、それすらも結果に過ぎず、その芽は文明を生んだ心にすでにあったのだと思う。「アダムとイブがりんごをかじった」のはその象徴的表現だろう。
近年の凄まじい効率主義の弊害は、人間の心ではない頭による合理主義の結末であり、そして象徴としての原発がある。


合理主義とは計算で、それは脳の肥大化を意味し、身体性(心)を失っていく。
人の60兆の細胞は個々に生きており個々に考えている。その総合体としてのひとりの人間は、当然細胞の声を聞くことができる。それが直感や感性だ。そしてその声は他者やその他の生命ともコミュニケートしている。「サルモサックスは細胞レベルのコミュニケーション」とはそういう意味だ。しかし脳が先行するとその声が聞こえなくなり、聞こえないものは抹殺されていく。


音楽活動を続ける中で「淡々と今できることすべきことをする」という答えを実感として得た。実際それ以外のことはできないわけだし、苦しい時こそその原点を忘れないようにしてなんとか乗り切ってきた。
今回の地震原発事故に動揺して自分を問い直したが、その答えは変わらなかった。なにも人はスーパーマンになれるわけではない。古来言われている「今を生きる」だけなのだ。でもこの言葉は重い。そもそも時間というものさえあるかどうか問うている。そして現実感をもって生きること、身体的に直感的に生きることを言っている。


こうしてこの2、3年、価値観が変わる、つまり時代が変わることを願望もありつつ感じるようになった。
23年半のサラリーマン生活をやめて音楽家の道を選んだ意味はまだよくわからないが、数千年人類をしばってきた価値観が変わるかもしれない「時(流れ)」に連動することだったのかとも思うようになってきた。
とはいえ、価値観(金融資本システム)が変わるには大きな代償が必要だろうし、悲しい出来事が起きるだろうと思っていた。そして始まった。
多くの犠牲者が浮かばれるためにも、小手先の変化修復ではなく価値観が根本的に変わることを願う。


アーティストの現在は厳しいものがあるが、存在意義はこれから大きくなるだろう。深い呼吸をし、身体を思い出し、直感や感性の声を聞き、目に見えないものを大事にし、今を生きれば難局は乗り越えられるのだと思う。そのとき、人は皆アーティストなのかもしれない。